2023年1月15日(第3主日)
説教「ぶどう園の番人:結末を書くのはあなた」
1)伝道礼拝での創世記講解において、罪の結果の一つに「自己防衛」(創 3 : 7) があることを学んだ。他人に不幸があると「罰が当たった」や「因果応報」などと、人は自分以外の人々に罪深い人というレッテルを貼ることで自己防衛を図る習性がある。13 章冒頭の記事(1〜5 節)で、主イエスはそのように自己防衛する人たちに対して「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と警告された。その上で主は本日のたとえ話を語られた。
2)聖書においてイスラエルはしばしば「ぶどう園」や「いちじくの木」にたとえられて語られている(e.g. I 列王記 4:25)。反対に、実を結ばないぶどうの木やいちじくの木は、神に対して不誠実なイスラエルを表す比喩的表現とし て語られている(e.g. エレミヤ 8 : 13)。13 章冒頭に見るユダヤ人の民族的 優越感は神の前では何の意味もなさない。所詮、実を結ばないいちじくの木に過ぎないからだ。
3)このたとえ話においてぶどう園の所有者は「神」、ぶどう園の番人は「イエス」、いちじくの木は「悔い改めの実を結ばないイスラエル」である。
4)ぶどう園の主人にとっても、また番人にとっても、忍耐の期間にはある程度の 限界があることが窺われる(7〜8 節)。しかし番人はそれでも、一本のいちじくの木を大事にすることに拘った。主人の忍耐は番人の執り成しによって保たれた。番人はいちじくの木に忍耐しつつ、世話を続けた。
5)番人に庇ってもらったいちじくの木は、では 1 年後に実をつけただろうか? 「否」である。番人はどうなったか? 庇ったそのいちじくの木によって、番人自身が切り倒されてしまった。実際、主イエスを十字架につけたのは、いちじくの木にたとえられるユダヤ人たちであった。
6)主イエスは十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。」と祈られた(ルカ23 : 34)。ご自分を切り倒した民のために執り成し祈られた。救いはユダヤ人から異邦人に道が開かれた。私たちもぶどう園の番人であるお方の忍耐と執り成しと愛の対象である。「今年もう一年」の結末を書くのはあなたなのだ。