2022年11月27日(第4主日)

説教「神の国への備えは十分か:十人の娘」

聖書箇所:マタイの福音書25:1〜13

1)当時の結婚式の習慣:① 式は夜に行われる。② 花婿が友人たちと花嫁の家に迎えに行く。③ 花婿の家の行列を作って帰って行く。④ 花婿の家で祝宴が開かれる。⑤ 花嫁に付き添ってきた娘たちは「たいまつの踊り」を花婿の家の前で踊ることが期待された。従って、家までの道中と到着後の踊りのために十分な油が必要であった。「ともしび(灯火)」はランプを連想させるが実際は「たいまつ」のこと。

2)このたとえ話での3つの問い。① 十人の娘とは誰のことか。 ② 愚かな五人と賢い五人の違いは何か。③ なぜ油を分けてやらないのか。
① 彼女たちは皆、表面的には信仰者である。花婿を待つことはキリストの再臨のたとえであるが、彼女たちはそれを信じ、待っている人たちである。主イエスは愚かな五人と賢い五人に分けられたが、表面的には区別がつかなかった。全員が花婿を迎えに出て行き、全員がともしびを持ち、そして全員が寝入ってしまった。同じ信仰、同じ期待、同じ弱点。

② 彼女たちの間の決定的な違いは、油を用意していたかどうかである (3 節)。 油とは「聖霊による行動の伴った信仰」のたとえと理解できる。口でキリストを告白し、再臨を待望していても、その信仰どおり生きているとはかぎらない。実質的な実をつけていなければ、愚かな生き方。

③ 信仰生活には、他人に分けてあげられるものと、そうでないものがある。 隣人への愛の施しが聖書では奨められる一方、例えば、信仰は人に分けてあげることはできない。「自分の分を買ってください」(9 節)。一人一 人が自分で獲得しなければならないものがある。自立した信仰の必要。