2023年3月19日(第3主日)
説教「七回を七十倍するまで:王に借金を免除」
聖書箇所:マタイの福音書18:21〜35
1)このたとえ話では、「赦す」ことについて現代の教会が直面している牧会上の問題を意識して、たとえ話の消極面、つまりたとえ話が「語っていないこと」とその問題への具体的対処をたとえ話の御言葉から探って行きたい。
2)現代の教会の問題:「赦しの福音」の実態
宣教師・伝道者の決まり文句に「神はあなたを赦しておられる」というのがあり、「赦しの福音」と称されている。また、牧師の説教には「赦し合おう」という言葉がしばしば登場する。さらには、教会をさして「赦しの共同体」などと説いて悦に入っている牧師も見受けられる。その渦中にあって、日本の教会では「赦さなければならない」ということがしばしば語られ、半ば強制と化している。その結果、他人の悪行によって被害を受けた者はその悪人を責めるのではなく、赦すべきであるとされ、逆に、赦さない者はキリスト者としてふさわしくないという言辞で裁かれることになる。 悪を行った者が「赦される権利」を享受しうる反面、その悪行によって被害を受けた者には「赦す義務」が課せられ、それを受忍しえない者には制裁が課せられるというのは、あまりにも理不尽である。悪を行った者が、厚顔にも、被害者に対して「赦し」を要求し、逆に「赦していない」と称して、加害者が被害者を断罪する珍現象すら起こっている。(櫻井圀郎 『キリスト教における「最後の審判」の意義』 「福音主義神学」No.31, 2000年 p. 87)
3)以上の問題意識から、このたとえ話を、① 罪の種類、② 罪の赦しの性質、③ 罪の赦しの要件、の3つの観点から読み解いて行く。
説教メモでは ①のみ言及する。罪の種類は殺人・傷害・窃盗等の刑事犯罪ではなく、無許可営業・脱税・交通違反等の行政法規違反でもなく、借金という民事の債務である。公の秩序に関する犯罪や法規違反ではなく、私人間の権利義務関係から生じた債務を指している。